オリンピックについて思うこと

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漫画家の久保ミツロウ、コラムニストの能町みね子、音楽クリエイターのヒャダインによ - Yahoo!ニュース(ホウドウキョク)

スポーツにはあまり興味がありませんが、それでもオリンピックはやっぱり特別感あります。日本人として一喜一憂する気持ちは、それがスポーツかどうか以前の問題です。

今回はメダル獲得数が過去最多だそうで、素晴らしいことだと思います。一部には「種目数が増えたから、メダル数も増えて当然」といった意見もあるようで、それは確かにその通りなんでしょうが、それはさておき素晴らしいことに違いはないですね。

若干(?)ひねくれものの自分としては、批判覚悟でオリンピック関連の言いたいことを記しておきます。

苦労したから勝てたのではない

オリンピックで良い結果を残したら、その選手のドキュメンタリー的な報道が多くなります。その多くは
「大変な苦労、逆境に打ち勝った」
といったテイストです。

そりゃ確かに世界トップクラスのアスリートに簡単になれるはずがありません。様々な苦労もあるでしょう。
しかし、それを連日のように報道し続けると、苦労礼賛になりませんか?努力、忍耐、根性主義です。

努力や忍耐、根性、苦労というのは、あくまで結果論です。順序が逆になって、苦労しないと栄光はつかめない、となると危険です。
苦労したから栄光を掴んだのではありません。
栄光を掴んだ人には、多くの場合苦労があるのです。
この2つは似ているようで全然違います。

現時点で子供を持つ親は、ここを勘違いするととんでもないことになるので注意しましょうね。

芸術は競争か

私の思うスポーツの、最大にして必要な要素は、満場一致の勝敗が決まる、ということです。
スピードを争う競技ならば、0.1秒でも速くゴールした方が勝ち、距離を競うならば、1cmでも距離を延ばした方が勝ちです。
ルールさえ知っていれば、誰が見てもどちらが勝ちか判断でき、すべてのアスリートは必ず勝ちを目指します。

そういう考え方で、オリンピック競技としてどうなんだろう、と思うのは、みんな大好きフィギュアスケートです。

フィギュアスケートの採点は、一般の人にはかなりわかりにくい。
「それはお前が採点基準をしらないだけで、明確に採点基準がある」
という意見をもらいそうですが、だとしたらなぜあんなにたくさんの採点員が必要なんでしょうか。
それだけの人数がいるというのはつまり、人によって判断が分かれる要素があるということです。
つまり、明確さに欠けるということです。

明確を求めても、スポーツには確かに運などもあります。
スキーのジャンプは向かい風か追い風かが飛距離に大きく影響しますが、風は人にはコントロール出来ないし、室内でできるものでもないので、結局運です。不確定要素は限りなく少ないほうが競争としては純粋ですが、その運もスポーツの一部とみなすわけです。
しかし、採点員の主観がそこに入り込むと、スポーツの重要な要素が欠落します。

0.1秒の差、1cmの差で決まる競技に比べると、フィギュアはその差があまりにも雑だと感じてしまいます。
華麗さ、綺麗さを競う競技にはすべて同様のことが言えます。

私は音楽分野です。音楽は殆ど主観で決まる文化です。世界で一番売れている曲よりも、地元で細々と活動しているミュージシャンが歌ってくれた曲に感動する人がたくさんいるし、それが当たり前の世界です。
そんな音楽には、誰もが知る大きなイベントやフェスがあり、それらに出ることはミュージシャンにとって素晴らしい名誉です。ただ、そんなイベントやフェスに、特に順位なんかありません。そもそも順位を競うものではないからです。
もちろん出演する枠には数の制限があるので競争になるのですが、その競争は必要だからあるもので、競争自体が目的でないことは明らかです。

フィギュアをはじめとした芸術を競うものは、音楽におけるイベントやフェスに移行して、その華麗さや綺麗さを思う存分アピールしてもらう方がよいと思うのですが、どうなんでしょうか。今回は日本のフィギュアは好成績を出しましたが、逆に「なんでその採点?」となる可能性が常にある、ということです。そんなモヤモヤ感を助長する競技が、はたしてオリンピックに必要なんでしょうか。

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