心に痛い言葉を受け止める〜人間はそもそも合理的なんかじゃない

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私は結構いろんなところに合理性を求めてしまう癖があります。

もちろん合理性ではどうにもならないことも多々あり、それもわかってはいるものの、やはり合理性に重要度をおいてしまうわけですね。

 

しかし、合理性を追求するのはほどほどにしておこう、という話。

 

 

 

私は普段の生活であまりストレスを抱えていません。

それは私がフリーランスであり、ある程度仕事を選べるからです。

もちろん楽しい仕事ばかりではありませんが、ストレスがかかり、笑顔が消えるレベルのことは避けよう、といったコントロールはサラリーマンよりしやすいでしょう。

 

しかし今後はどうなるかわかりません。もしかしてフリーランスとしてうまくいかなくなったら、どこかに就職するかもしれないし、そうなると今ほど仕事選択の自由はなく、おそらく今よりもストレスが増えます。

 

それに、いくら起業する人が多くなってきたとはいえ、やはり雇われて仕事をしている人が多くを占めるのも事実で、その多くは様々なストレスを感じているわけです。

 

ストレスは、何かがうまくいかない時に感じやすい。

仕事で失敗して誰かに迷惑をかけたときや、上司に怒られた時など、ですね。

そのときに自分を見つめ直して、「なにやってるんだろう、俺・・・」となります。

そんな時、隣りにいる同僚がうまく仕事をこなしているのを目にすると、劣等感を覚えます。

 

そのずっと先、いや意外とすぐ先にある考えが、「俺ってここにいる意味あるのかな」です。

そして、そのすぐ隣にあるのが「俺って生きている意味あるのかな」です。

死に至る病、それが絶望を意味するというのは正しいと思います。

 

しかし、この考え方は論理的に過ぎる、ということに気づかないといけません。

つまり、生きている意味なんてそもそもどうでも良いのです。

そこに合理的な意味なんて不要です。

 

そうは言っても、なにかしら生きている意味がほしい。

そういう人は、私の大好きなアーティスト、スガシカオさんのこの歌詞を読みましょう。私も幾度となく救われました。

 

ぼくらが二度とない今に生きる星ならば

きのうと変わらない今日を生きる意味がある

 

 

言葉遊びのようになりますが、考えてみれば合理的でなければならない合理的な理由がありませんよね。

 

世間に対して大きな影響力を持つような人は、それはそれで素晴らしい。

でも、いわゆる地味な人生、どこにでもある人生でも構わないと思います。

 

どれだけありふれた人生であっても、個人個人はありふれていません。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

 

 

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