批判といじめ

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東日本大震災の影響は、8年たった今でもいろんなところに見られます。
特に原発事故の影響は計り知れません。

私が特に懸念しているのは、福島産の農産物についてです。

福島の農産物については既に、人体への影響が無いという安全基準をクリアしています。
しかし、それでもいまだ危ない、買わない、という人が後をたちません。

フェイスブック上の友達で、福島の農産物は危ない、といった記事をシェア、拡散している人がいました。
その人は実際の知り合いです。
普段から政治的主張が強い人ではありませんが、これ系の記事は結構読んでいるようです。

実際に会ってなんとなく話していると、そういうことか、と思ったことがありました。
その人は、福島産の農産物の危険性を警鐘する、という行為を通して、政府の批判をしているのです。

核廃棄物の処理方法がちゃんと決定していない状態で原発を作り、しかも人口の多い東京ではない場所に作ることによって東京の安全を確保、原発周辺地域に対しては、危険性のリスクに値する対価を払う、といったやり方に反発しているのでしょう。

わからなくもないし、確かに、と思うところがあります。
しかし、私が言いたいのはここではなく、その批判のネタで福島産の農産物を利用するというところです。
政府がだめだから、福島の農産物が危なくなっちゃったじゃないか、ということです。

つまり、その人は政府批判をしているつもりなのでしょうが、それが福島の農家に対するいじめになっている、ということに気づいていない、ということです。

批判といじめは違います。
批判は論理的、もしくは統計的根拠があり、いじめにはありません。

上記理由で政府の原発政策を糾弾するのは、批判と言って良いでしょう。
別の見方や意見もあると思いますが、一通りの筋は通っています。
正しさがひとつではなくいくつもあるので、議論で社会全体の知識を深め共有していきましょう、というのがこの国の決定過程です。

一方、福島産の農産物が危ない、という説には論理的な根拠も統計的な根拠もありません。
この場合論理的というのは科学的と言い換えてよいと思いますが、科学的には大丈夫と示されています。
鼻血が出たとか、いろんな病気を発症した、といった報告もありますが、統計学上、その原因が放射能にあるという可能性は否定されています。

だからこっちはいじめと同じです。

しかも面倒なのは、政府批判はジャーナリズム精神、つまり国のために善きことをしているのだ、と思っているわけだから、それが福島の農家を苦しめているということに気づきにくい。

繰り返しますが、そこに論理的、統計的な根拠があるのならば、たとえある人たちが苦しむことになっても仕方ありません。
でも福島にはこれがあてはまらない。
あてはまらないという情報は山程でてくるのに、その中にある根拠の薄い「危ないかも」系記事の方をピックアップし、シェア、拡散する。
結果、農産物が売れないので生活が苦しくなります。

これがいじめでなくてなんなのでしょうか。
震災で嫌という程くるしんでいるのに、それにさらに鞭打つような行為は残酷卑劣です。

いじめによって自殺という最悪の結末になったあと、いじめていた方から「冗談のつもりでやっていたから、悩み苦しんでいることに気づかなかった」といった類のコメントが出ることがあります。
社会はそれを猛批判します。

しかし、福島産の農産物に対する危険性をいまだ言っている人たちは、ここでのいじめ加担者となんら変わりません。

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